私たちはなぜ人を羨(うらや)ましがるのだろう

羨ましい、という気持ちは、決して建設的な感情ではない。


高校生のひと頃、私は「羨(うらや)ましい」の塊だった。成績の良いクラスメートを見てはいいなぁと思い、体育で活躍する運動部の生徒を見てはすごいなぁと思い、モテる友人を見てはチクショー自分がその子だったらいいのにと思った。肯定的にとらえられた部分もあるけれど、裏にはいつも「羨ましい」という感情が潜んでいたように思う。


なぜ、私たちは誰かを羨ましいと感じるのだろう。


理由は二つある。一つには、自分にないものを持つ人への羨望。もう一つは、自分を省みて、私には何もないと気付く落胆。羨望と落胆が、羨ましいという短絡的な感情に落ち着く。しかし、ちょっと待ってほしい。私たちは往々にして、自分にない何かを持つ人の苦労や努力を知らないことが多い。彼が、彼女が陰で100倍の見えない努力をしているかもしれないし、当たり前のように持つ才能のお陰で、本意ではない辛い何かを強いられているかもしれない。つまり、人の本音など表面上は誰にも分らないのだ。たまに「ズルい」という人がいる。あなたがとある試験に努力してパスしたとして「受かったの?え~ズルい!」などと言ってくる人がいたら、一言言ってやりたくなるだろう。こちらがどれだけ頑張って勉強したかも知らず、自分にないものを手にしたというだけで「ズルい」とは。それなら、アンタも努力しやがれってんだ。こういうタイプにはたまにはガツンと言っておやりなさい。

そう。他人の経験や苦労など、私たちは知り得ないということを知っておく必要がある。


もう一つ、落胆することについて。

誰かを羨ましく思って落胆するのは単に人と自分を比べているから。私はダメだ、私には無理だ、私なんて、私、私、、、こういう時頭の中は自分ダメダメフルモードになる。ではそのモードをOFFにするにはどうすべきか。すごく簡単。「私は私。あの人はあの人」と自分と人を切り離すこと。例えばリンゴの木がミカンの木に「あなたはミカンがなっていいわねぇ、私にはできないの…」なんてガッカリしていたら、馬鹿らしいと思わない?いやいや、あなたはリンゴの木でしょ。リンゴの木には立派にリンゴがなるじゃない!それって、すっごく素晴らしいことじゃない!…ってことです。


大切なのはリンゴの木であるあなたが、それを知ること。そして、あなたにしかないリンゴの実をならせるにはどうすればいいか、考えて、捜して、実行して、実践すること。絵が描けるかもしれないし、走ることが好きかもしれない、ダンスが上手かもしれない、人と人とつなぐことが得意かもしれないし、みんなをまとめることが好きかもしれない…、うん、どれも素敵な実だね。


リンゴの木がリンゴの実を誇らしく実らせることが出来る頃には、羨ましいって感情はなりを潜めていることだろうよ。


Be ambitious, boys and girls!

Be ambitious, dear friends.

現役英語講師の頭の中。