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記事一覧(138)

一期一会~オーストリア編③~

3日目はドナウ川をヴァッハウ渓谷へ下り、メルク修道院と古城を巡るクルーズをした。川からの景色は絵画のように美しかった。向かう途中で寄港したメルク修道院は石造りの荘厳な建物であった。外の見事な壁にはツタがからまっている。長い歴史を感じた。例えが貧しくて申し訳ないのだが、広々と静かな建物はファンタジーゲーム(要はTVゲーム)で見た修道院そのものだった。長いローブ姿で歩く修道僧を見つけては、『こういう人に話しかけて冒険のヒントをもらったり、ゲームをセーブするんだよなぁ。』などと、感動を覚えたりした(いや、違うから)。修道院内の景色に見惚れていたからか、間違って男性の化粧室に入ってしまった。中に入った途端、恰幅のいい男性に『オイオイ、お嬢さん。ここは男性用だぜ!冗談はやめてくれよ!』と、英語でツッコミをいただき、『ごっ、ごめんなさいいい!!!!』と這々の体で逃げ出した。背中からは大爆笑が聞こえた。ドナウ川を下っていると、川のほとりにいくつも城を見ることができる。昔から聳え立っているであろうそれらの古城たちは、私の心をワクワクさせるのに十分だった。幼い頃からページをめくるのももどかしく読み進めた王や王妃や姫の物語、騎士や兵士の勇敢な冒険のストーリーが目に浮かぶようだ。小説でしか見たり聞いたことのない世界が目の前で広がっている。なんて素敵なんだろう!もちろん、実際のそこでの暮らしは、私が知るおとぎ話のように素晴らしかったかというとそうではないかもしれないけれど。それでも、美しかったし、楽しかった。クルーズツアーの参加者はほとんどがヨーロッパから来た観光客だったけど、私以外に唯一日本人の母娘がいた。東京から来たという60代くらいのご婦人と30歳前後の娘さんとランチが相席だったのだ。船の中で、ナイフとフォークを使っていただくオーストリアの名物が美味しかった。ウインナーシュニッツルは、日本のトンカツに似ている。トンカツよりやや薄い豚肉を使って揚げられているので、日本人には好き嫌いが分かれるかもしれない。私は好んだ。ふと、母親の方の婦人が話しかけてくる。娘さんと時々海外旅行をするらしい。彼女は『実は娘はスチュワーデスをしておりますの!』と、重大な秘密を打ち明けるかのように、でも、得意げに言い放った。『ですから娘は英語がペラペラでして、世界中どこに行っても安心なんですのよオホホ‥』スチュワーデス、という言葉をものすごく久しぶりに聞いた。その後も婦人のご自身語りは止まることがなく、私はランチの30分の間で彼女の家族構成と、それぞれのご職業を全て知ることとなった。娘さんは英語が流暢なCA(日本の航空会社勤務)、ご主人はとある企業の代表取締役社長、2人いる息子さんたちは内科と心臓外科のお医者さまだという。華麗なる一族なのだそうだ。ご婦人は娘さんが英語を話せることをとても誇らしく思っていらっしゃるようだった。『海外旅行するなら言葉ができないと不便でございましょ?娘は流暢に話せますものですから何も不便はありませんの。言葉でご苦労なさっていらっしゃるのではないですか?』と問われたので、いえ、幸いコミュニケーションを取ることはできると思います、と答えたところ、『あらぁ、大丈夫ですわよ英語が話せなくても!世界のどこへ行っても笑顔さえあれば心が通じ合えますからね!』と励ましてくださる。本当にそうですよね、と答えた。すると、突如ご婦人に問われた。『あなたは何のお仕事をなさっていらっしゃるの?』本当は聞かれたくなかった質問だ。英語を教えています‥、と答えた。『あっ、あら、なら英語をお話しになるんですのね‥』とご婦人。場の空気がちょっとだけ気まずくなってしまったことは否めない。『いえ、でもまだまだ勉強中です!言語の学習って終わりがないですからね!』と慌てて伝える。これは本音。旅は道連れ、世は情け。普段なら会わない人と、不思議なほど親しく話せるのも、旅ならではの楽しみではないだろうか。いい思い出だ。(つづく)

一期一会 ~オーストリア編②~

オーストリア、ウィーンを訪れたのは秋だった。ドナウ河にそびえ立つ古城を目指し、アウトバーンと呼ばれる高速道路を高速バスで走っている時、窓から見えた山々の紅葉が非常に美しかったことを覚えているからだ。遠い異国において木々の葉が赤や黄色に染まっていることに感動を覚えた。しかしながら、野山の錦に心を打たれる日本人の感性はオーストリア人には理解できないそうだ。バスガイドの方は『日本では紅葉を見て感動するそうですが、こちらにはそのような習慣はありません。』とごくあっさり教えてくれた。ところで「ウィーン」は英語で「Vienna」と書く。発音も「ヴィェナ」だ。「ウィーン」とは大違い。恥ずかしいことに、現地に着くまでそれを知らなかった。飛行機から出て空港内を歩いている際、ここがViennaであると示されている電光掲示板や看板を見て、別の土地に来てしまったのではと最初は本気で心配した。実はフライトの出費を極限まで省いたお陰か、トランジットがすごい旅だったのだ。まずは関西空港から台北の桃園空港へ。数時間の滞在後、桃園空港からUAEのアブダビへ。再び数時間を過ごし、ようやくアブダビから最終地のウィーン着という。乗り継ぎ地獄のような往路に疲労困憊していたため、よもやフライトを乗り違えたのかと思ったのだ。旅のガイドブックをよく調べてみると、「Wien(ウィーン)」は現地(というか英語圏)では「Vienna」と表記されていることが多い、と書かれていた。ホッとした。そしてひとつ賢くなった。ウィーンの町並みは実に美しい。石畳の道が続き、街のどこを見渡しても芸術作品のような建造物が調和を保ちながら並んでいる。精巧な彫刻のような建物たちは、さながらすべてが貴族の家や美術館かオペラハウスかのように見えた。が、ごく普通の建物がほとんどなのであった。もちろん、有名なシュテファン大聖堂とか、ベルヴェデ-レ宮殿とか、国立歌劇場等も真実に見事だった。美しく、荘厳なそれらを見上げるだけでため息がこぼれたものだ。さて、ウィーンと言えば「ホテルザッハ-」のケーキ「ザッハトルテ」が非常に有名である。かつてオリジナルをめぐって大きな裁判が起こった。ウィーンっ子が誇る、名高いこのケーキを食べずしてはウィーンに来たとは言えまいと考えていた。だから、初日のミッションとしてホテルザッハ-を訪れた。ここで提供されるものこそが本物の「ザッハトルテ」なのである。証拠にケーキの上に丸い「HOTEL SACHER」とエンブレムが飾られている。出てきたのは、濃厚なチョコレートでコーティングされたスポンジケーキだった。隣には生クリームがたっぷり。これが定番なのである。辛党を自認している私には、少々暴力的な甘さだ。一緒に頼んだコーヒーを飲む。こちらは素晴らしく美味だった。苦みが全くなくてスッと飲める。オーストリアは硬水なので、コーヒーや紅茶は渋みを感じさせずに美味しく淹れることができるのだという。そういえば現地の水もピュアだった。海外で水道水を飲むことが出来た国は、ウィーン以外にはほぼなかったと思う。非常に甘かったが、ザッハトルテはとても品のある味をしていた。オーストリアはチョコレートの質が高い。それなら、と思った。ウィーンのお土産はチョコレートに決定だ。(つづく)

事実は小説よりも。 【大学編②】

友人の曇った表情を見て、なんとなく悟ってしまった。多分、彼にはつきあっている人がいるのだろうと。間違っていなかった。梨花いわく、ひと月ほど前からその人にはいつも一緒の女の子がいるとのこと。彼女も同じサークルらしい。「私さ、」梨花は言った。「Yと〇〇くんのことをずっと聞いてたから、正直信じられなかったよ。まさか他の子と。」とため息をついた。私は、そうだねと言った。でも、仕方ないんだよ。その人が誰とつきあおうが、私に何を言う資格があるのだろう。別れる前、梨花は言ってくれた。「Yの純粋さと、透き通った心を大切にしてくれる人を見つけてね」悲しいはずなのに、嬉しかった。ありがとう。その日はアルバイトだった。よりによってその人と一緒のシフト。梨花から聞いたことは本当だろうけれど、やっぱり本人に本当のところを聞きたいと思った。私は私で、この思いを終着させる必要があったわけだ。だけど、何て聞けばいいのだろう?『彼女出来たんだよね。』って?無理!言えるわけがない。『最近大学でどんな感じ?』却下!今更、不自然すぎる。『そういえば梨花から聞いたんだけどさ~。』ダメだ、噂話みたいで気が引ける。頭の中で忙しくシミュレーションしていた時、その人が話しかけてきた。Yちゃんの出発って7月だよね、と。私はそうだと答えた。そこから留学先の大学の話しになって、自然な流れでバイト仲間との話になった。私は言った。「仲良くなれたのに、みんなに会えなくなるのが寂しいな。」彼は出発前に送別会をしようと言った。私は礼を伝えて、えーいもういいや!とばかりにこんなことを尋ねたのだ。「リムルにとって私は、どんな存在?」他人が聞けば意味不明、何の脈絡もない質問だった。言葉を発した直後に猛烈に後悔したけど、返事への好奇心の方が勝っていた。虚を突かれたのか、一瞬その人は言葉を失ったけれど、やがて私にまっすぐに向き直って答えた。「一生の、大事な、ともだち。」そっか、ありがとうと私は笑顔で答えた。そのまま仕事を終えユニフォームを脱いでサヨナラを言ってコンビニを後にした。外は雨が降っていたことと、雨のお陰で止まらない涙が目立たなくてちょうどいいやって思いながら帰ったことを、その人は知るよしもないだろう。7年分の涙だった。ひと月後、私は機上の人となった。夢に見たアメリカでの留学生活が始まるのだ。出発前にたくさんの友人たちからもらった色紙や手紙がスーツケースに入れてある。ともすれば臆病になる気持ちに勇気をくれる宝物たちだ。何通かは手元のバッグに忍ばせてあった。その中の一通を開いてみる。出発の直前にその人から送られてきた、久しぶりの手紙。『‥送別会ができて良かった。アメリカで頑張って。俺も負けないように日本で頑張るから。そういや最後に店にあいさつに来てくれた日、会えなくて残念だった。Yちゃんがバッサリ髪を切ったと店長が大騒ぎしてた。月9の女優さんみたいですげー綺麗だった、てさ。見逃した!!帰ってきたら必ず連絡して。元気で。』静かな飛行機の中でクスッと笑う。私たちはようやくともだちになれたのだろうか。そして、再会したのは3年後。(了)

オフレコ

ここしばらく、過去の思い出がテーマの連載を書いています。昔のことを思い出すってなかなか面白いと改めて感じています。過去の出来事。それは余程強烈なことでない限り、大抵は段々と記憶が薄れて行くものですし、あるいはすっかり忘れてしまっているものも多いでしょう。今回の『事実は小説よりも。』シリーズ。実はこれ、当初は1つの記事で書き上げるつもりでした。なぜなら、私が書きたかったのは、たったひとつのエピソードだったからです。ところが、最も記したい部分を丁寧に思い返している内に、そこに至った経緯をきちんと語らなければならないと気づきました。その出来事が起きたきっかけを説明せずしては、きっと本当の意味で伝えたいことが伝わらない‥と知ったのです。そんな風にして、遠い記憶の土を少しずつ掘り返している内に、正に『芋づる式』にもう忘れていた(と思っていた)思い出たちがずらりとその姿を現したのでした。こうなったら、もう、全部書こう!・・・と言うわけで、私の予想を大幅に超えて、今シリーズが長編となったわけです。とはいえ、長いシリーズものを書くことは結構好きです。行き着く先のゴールはちゃんとわかっていますし、そこまでの道のりが意外さに満ちていて楽しいのです。ちょっと山登りに似ているかもしれません。目的地は頂上だけれど、途上に何があるのか何が見つかるのかは未知だ、というワクワク感とでも申しましょうか。しかしながら記事の中で綴られるエピソードは、実は未知などではなく、過去の自分が体験したことばかりです。そのため、当時の気持ちにできるだけ忠実で正確に記すようにしているのですが、それゆえにヤキモキしてしまうのも確かなのです。例えば、書きながらつい、こんな風に思ってしまう自分がいます。『そこははっきり言うべきだよ。』『もう少しだけ、視野を広く持ってもいいのになぁ。』『そこまで深刻に悩まなくても大丈夫だよ。』などと。“主人公”に対しておせっかいなアドバイスをしたくなってしまうのです。もちろんそれは今の自分だからわかることでしょうし、仮に当時の私が今の私の助言を聞くことが出来たとしても、素直に受け入れられたかどうかは怪しいものです。それでいいのです。過去の時間軸で必死に生きていた自分と、今の時間軸を生きている私の視点が異なるのは、当然のことですから。人は変わるのだなと思います。変わるって悪いことだけではないのですよ。なぜならそれを『成長』と呼ぶことも出来るからです。では、どんな変化であれば『成長』だと呼べるのでしょう。あなたはどのように考えますか?私は、人が成長するとは、心に温かさが増し加わることだと考えています。失敗、挫折、試練、痛み。それらを乗り越える度、人は自分のみならず周りの人々への配慮と理解、寛容と柔和さといったものを生み出せる、より洗練された者へと成長していく。そのように信じているからです。願わくば、と思います。1年後、5年後、10年後の自分が今よりも成長したと胸を張れる生き方が出来ていますように。私の周りにいてくださる大切な方たちのために、未来、より一層の温かさを持って接することができる自分でありたいと心から望みます。『事実は小説よりも。』も中盤を過ぎました。読者の皆さまにはもう少しだけおつきあいいただけましたら、幸いです。

事実は小説よりも。【大学生編①】

気まずくなることを覚悟していたけれど、特に大きな変化はなかった。これは、バイトの仲間たちのゆえだったと思う。なんとなく状況が伝わっていたようだった。彼らの気遣いのお陰で、私とその人が困ることはほとんどなかった。数週間もすると、ほぼ元通り話せるようになった。4月を迎え、その人は大学生となった。私は渡米を7月半ばに予定していたこともあり、午前中に英語の学習をし午後から夜までコンビニで働くという生活を続けていた。その人とは相変わらずアルバイトで週に数回、顔を合わせた。不思議なことが起きた。大学に入ってから、その人の振る舞いや話し方に急激な変化があったのだ。それまでは遠慮がちにこちらの様子を伺いつつ丁寧に言葉を発することが常だった彼が、やけに陽気で親しげに接してくるようになったのだ。大学の授業のこととか、久々に会った同級生のこととかを屈託なく話してくる様子に、戸惑うことが増えた。悪く言うなら、ほとんど『馴れ馴れしい』と呼んでもいいくらいの。新しい環境の影響だと解釈したけれど、自分がずっと知っていたその人とは、随分と異なっていた。こんなことがあった。二人で店番をしている時だ。何かの話しのついでに、そういえばさと彼は言った。「そろそろ、〇〇さん(私の名字)って呼ぶのをやめてもいい?」と。突然、何?繰り返すけど、こんなことを気軽に話してくる人では断じてなかったのだ。私は別にいいけど、と答えながら内心では「なぜ今更?」と考えた。ところで、私には99%の小中高の友人達から認知されている呼び名というかニックネームがあった。それを提案してみたけど、「さすがに恥ずかしいって。」と速攻で却下された。小学校の時は呼んでたこともあったくせに、とちらりと思ったが言わないでおいた。結局、その人の希望で「Yちゃん」と呼ばれることになった。ニックネーム以上にひねりのない呼び方だ。だから「私も名字呼びはやめる。」と言った。自分も「リム」と呼んでいた時代があるんだよな、と思いつつ「これからは、”リムル”にします!」と命名&宣言した。えーっ、どこから「ル」が来たんだよと言う彼に、由緒正しい『ドラゴンクエスト1』の街のひとつ『リムルダール』からです。有り難く受け取れい、とふざけた。私たちは声を出して笑った。こんな風に笑ったのは小学校以来だと思った。ただの「クラスメート」でいた頃。何のためらいも遠慮もなく話すことができたあの頃は、単純に楽しかった。ふっと思った。最初に「友人コード」を破った自分は間違っていたのだろうかと。すれ違い続けたこの数年間は不必要なものだったのだろうか。だが、そうだとは言い切れなかった。不器用ではあったけれど、それぞれの時代における自分の精一杯が良いものだと思いたかった。だから、信じることにした。私たちが歩んできた軌跡がいつか形となって現れる日が来ることを。そして、それが美しいものであると、その時の私は疑っていなかったのだ。入学式からふた月ほどした頃、久しぶりに梨花と会った。キャンパスライフとか留学のこととか色々と話していたのだけど、やっぱり避けて通れないだろうと、その人を話題に出した。「梨花、リムルとはサークルで会うの?」私の質問に、それまで明るかった友人の表情に影が差した。(つづく)

事実は小説よりも。【バイト編②】

話しはちょっとだけ変わって、先に友人の梨花(りんか)について書きたい。梨花は同級生で、帰国子女だった。大らかで優しい性格をしていた彼女と私は、意外と気が合った。同じクラスになったことは一度きりだったけれど、卒業式の後、なんとなく帰りたくなくて、駅周辺で食事をしたりカフェでいつまでも話していた仲良し数人のグループにいたくらいに、私たちは仲が良かった。住んでいる町が隣だったので、卒業後もちょくちょく顔を合わせた。私のアルバイト先のコンビニに「たまたまお客様として」来てくれたこともある。ちょうどその人と私が店番をしている日に知らん顔をして来てくれた梨花が、さりげなさを装いながらこちらをしっかりと伺っているのが分かり、笑い出さないように接客をするのがなかなか難しかった(こらえたけど)。私とその人のやりとりを見た梨花は後ほど「Yらしいなぁって思った。」と伝えてくれた。どういう意味かと尋ねたところ、「相手の〇〇くんも、シャイで純粋な人なんだろうね。」と答えた。ついでに、梨花のことでもう一つ思い出したことも書いておく。私が渡米する直前の最後に会った日、梨花は手紙をくれた。その際、彼女はいつになく真剣な表情でこう言った。「あのね、Y。この手紙の中にはね、私がYに願っていることを書いたの。アメリカに行っても、それを忘れないでいてくれたら嬉しいな。」え、なんだろう?別れてから開いた手紙には、こんなことが記されていた。『私はYのピュアでまっすぐなところが大好きで尊敬しているし、とても貴重だと思っています。だからアメリカに行っても、Yのそういう純粋で素敵なところは絶対に失わないでいてね。』と。こんな風に評価してくれる友人がいたことが本当に嬉しかった。逆に言うと、そんな風に人を見られる梨花自身もとても素敵な人だった。驚いたことに、梨花はその人と同じK大学の経済学部に合格していたのだ。つまりその人と彼女は4月から大学の同級生なのであった。さらに、梨花は大学ではとある運動部のマネージャーになるつもりだと話してくれた。なんとそれは、その人が所属するサークルだった。数百人もの学生が行き交うキャンパスで、その人と私の友人が一気に近くなったのである。なんという奇跡。梨花は冗談めかして「Yのために〇〇くんの動向を“見張って”おくからね。」などと言ってくれた。見張るなんてとんでもないと慌てて言ったけれど、友人とその人が友達になるのだと想像すると、私は素直に嬉しかった。3月13日に話しを戻す。その人は電話で尋ねた。明日どこかでちょっと会えないかな。明日。3月14日は私はアルバイトに入っていなかったのだ。「〇〇くんはシフトに入っているの?」との問いかけに、入っているとその人は答えた。少しで構わない、時間をくれたら近くまで行くから、と続けた。ひと月前のことを思い出した。バイト先のみんなへ感謝を表すというカモフラージュで、その人に贈ったチョコレートクッキー。きっとその人は思いを真剣に受け止めてくれたから、行動を起こそうとしているのだろう。うん、いいよ、と答えたかった。春休み、時間がなかったわけがない。仕事先は同じだ。家が遠いわけでもない。でも、どうしても、言えなかった。勇気がなかったから?そうではない。困惑したから?それも違う。あえていうならば、私は変化を恐れたのだと思う。ようやく手に入れた、その人との穏やかな日々が変わってしまうことが何よりも怖かったのだ。例えその変化がどんな形であったとしても。渡米まで、あと4ヶ月しかない。せめてその期間は、今の時間を大切にしたかった。・・・でも、そんなことを伝えられようはずがない。ごめんなさい、明日は。と答えた。3月14日がどんな日かを理解した上での返事だ。その瞬間に彼は色んなことを悟ったようだった。わかった、もういいから、と静かな声が聞こえた。電話を切り、ごめん、とつぶやいた。望んだはずなのに、それが正解だったか、わからなくなったのだ。(大学編へつづく)

事実は小説よりも。 【バイト編①】

コンビニのスタッフは店長と社員1人を除いて、全てが学生だった。私と同じ頃にアルバイトに入ったスタッフは6人。全員が同い年。高校を卒業後は大学と専門学校に行くのがそれぞれ2人ずつで4人、就職するのが1人、そして私(留学)だった。6人とも平日か週末の午後から夕方、あるいは夕方から深夜にかけてがメインだったので、一緒に働くことが多かった。私たち男女3人ずつのグループは自然と仲良くなり、仕事のオフ日をこっそり合わせて、よくみんなで出かけた。行き先はどこかって?大抵は誰かが取得したての免許で運転してくれる車でドライブしたり、ご飯を食べたり、カラオケに行ったり、ボーリングしたりとか。盛り上がった帰り道はなんとなくサヨナラするのが惜しくて、公園で延々と話したりもした。夏には花火もしたっけな。短期間だけどその人の教育係をしていたため、私たちは一緒にシフトに組まれることが多かった。最初こそレジ打ちに戸惑っていたその人も、2週間もすれば慣れ、店にとって頼もしい戦力となった。実際、その人は大学を卒業するまでの4年以上をそこで働いていたので、最終的にはアルバイトリーダーを任されるまでになった。多忙な時は息つく暇もないコンビニだけど、たまに不思議な程お客様が来られない、奇跡のような静かな時が訪れる。そんな時は普段は避けがちな、やや面倒な業務(揚げ物用の深いパンの油を変えるとか、店中の床を隅から隅まで丁寧にワックスがけをするとか、ドリンクの補充を徹底してするとか)をのんびり行う。それは、スタッフたちが軽いおしゃべりを楽しむことができる、ちょっとした幸運の時間でもあった。気の合うバイト仲間に部活時代の武勇伝(!?)とか、好きなミュージシャンのこととか、入学する予定の学校とか、聞いては話すのが楽しかった。アルバイトで週に3回はその人と顔を合わせていたその頃には、手紙のやりとりはほとんど終わっていた。あの夏祭りの時を含めずいぶん打ち解けてきたはずなのだけど、それでも二人の間にはまだ遠慮というか、なにかぎこちない空気感が存在していたように思う。例えるなら、密かに憧れていたクラスメイトと初めて隣の席になり、ようやくなんとか、会話できるようになったような感じ?本当に楽しく嬉しいはずなのに、どこか不器用さがつきまとったのだ。が、居心地が悪かったわけではない。たぶん互いのことを思いやるがゆえなのだろうと私は理解していた。今振り返っても、大きく外れてはいなかったと思う。それでいい、と考えた。ひところは顔を合わせることも話すことも諦めた相手だったのだ。その人と、同じ場所で共に時間を過ごせている。文章だけではない、互いの顔を見ながら、思い出を共有したり、今の気持ちを分かち合ったり、まだ見ぬ未来を想像できたり、するのだ。醒めないでいてほしい素敵な夢のように感じられた。2月のバレンタインデーの日。店長や先輩、その人を含めたバイト仲間たちにチョコレートをプレゼントした。当時ちょっとハマっていた、チョコクッキーを大量に焼いたのだ。この楽しい日々が続きますように、と願いを込めて。その人とずっと仲の良い友人でいられるならば幸せだなと思った。それ以上、何を望むことがあるのだろう?今思うとその頃から、その人と私には、少しずつ、思いにズレが生じてきたのであった。いえ、本当のことを言えば、私たちがすれ違わずにいられた時はなかったのかもしれないのだけれど。バレンタインから1ヶ月後、3月13日の夜。その人から電話が鳴った。(つづく)

一期一会~オーストリア編~

ヨーロッパに一度だけ訪れたことがある。年に二度。多ければ三度。叶うなら四度、旅に出ていた頃があったが、アジア圏内や比較的近場を選んでばかりだった。憧れはあったものの、休暇にあまり日数をかけられないことを理由に、往復だけで三日を要するヨーロッパへの旅行に、そこまで熱い思いを持つことができなかったのである。そんな私が、どうしても「行ってみたい」と思った国があった。オーストリアである。理由は3つ。音楽の都ウィーンが首都であるということ。悲劇のフランス王妃、マリー・アントワネットの故郷であること。そして、心を動かされたミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台であるということだった。オーストリアは天才音楽家モーツァルト生誕の地である。二十歳を二年ばかり過ぎた頃からミュージカルの世界に片足を突っ込んでいた私は、決して巧みではないけれど、歌や楽器を演奏することを始め音楽が好きだった。本番に向けて厳しい稽古を続ける中で、声楽家や音楽家の師匠や先達たちが話してくれる、麗しの都ウィーンに思いを馳せたものだった。フランス王妃のマリー・アントワネットの華麗だけれども悲劇的な人生については、池田理代子作コミック『ベルサイユのばら』と遠藤周作の小説『王妃マリーアントワネット』で知った。ルイ15世に嫁いでからは、わざとらしいほど派手で馬鹿馬鹿しい位豪華絢爛の生活を余儀なくされたマリーだったけれど、彼女が少女時代を過ごし、幾度となく懐かしんだシェーンブルン宮殿は、もっとシンプルだったと聞く。伝統を重んじてはいるけれど調和の取れた美しさ、穏やかではあるけれど明るい色合いを生かした宮殿。オーストリアの君主であったマリーの母、マリア・テレジアは皇子や皇女の教育に非常に熱心だったという。センスの良い住まい(宮殿)を建て、そこでのびのびと子らを育てることも、彼女の教育方針のひとつだったのかもしれぬ。そんなシェーンブルン宮殿をどうしても見たくなったのである。ミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』は改めて記すこともない位、有名な映画であろう。1938年のオーストリア。修道女見習いの家庭教師マリアが、厳格な退役軍人トラップ大佐の家にやってくることからストーリーは始まる。大佐は妻を亡くし、7人の子ども達を育てていた。遊びも歌も知らない子らに、マリアは歌を歌うことを教える。暗く寂しかったトラップ家に、マリアと歌を通して明るい光が射し込んでいく・・・という物語。この映画の中に、オーストリア人が国歌のように愛している歌が登場する。それが『エーデルワイス』だ。私はこの歌が本当に好きで、一度舞台で歌ったことがある。エーデルワイス エーデルワイス かわいい花よ 白い露に ぬれて咲く花 高く青く光る あの空よりエーデルワイス エーデルワイス 明るく匂え(童謡伝道マガジンふんふん「今月の童謡」より)オーストリアは、その歴史において国を失う憂き目に遭ったことがある。しかしそこに住む人々は不屈の精神で祖国を愛し続けた。映画を通して彼らの愛国心を垣間見たように思う。そんなわけで私は、オーストリアに興味を持ち、訪れたくなったのだった。シリーズ一期一会、オーストリア編、始めます。(つづく)

ブレックファスト・イン・ア・カフェ

あなたには、朝ごはんを喫茶店で食べる習慣はありますか?実は私は大人になるまで、喫茶店にモーニングという朝食があることと、そこで朝の食事をする人がいることを知りませんでした。朝食は家で食べるものだと思いこんでいたからです。10年以上前、喫茶店文化を持つ、とある県出身の方と友人になり、彼女が「子供の頃から、朝食は家族で近所のカフェに食べに行くのが習慣だったの。」と教えてくれた時には、本当に驚きました。その県では珍しくないことだそうです。ところ変われば文化や習慣も変わるものなのですね。ここ最近では、当県でもフランチャイズの有名なカフェや喫茶店が増えました。そばを通りかかると、モーニングをしながら(モーニングをする、という表現が正しいのか分かりませんが)勉強をしたり、読書をしている人たちが窓越しに見えます。近頃では私自身も「朝活」と称して、仕事の合間を縫って、カフェのモーニングの時間に友人と会うことが度々あります。お互いにそれなりに多忙な生活を余儀なくされている人と、朝の時間にサクッとおしゃべりするのは、その日1日のちょっとしたエネルギーになります。少し前ですが、とある喫茶店に初めて訪れました。そこは有名店でもなく、チェーン店でもなく、昔から開店されているローカルなお店です。自宅から車で数分の距離にありながら、これまでに横を通り過ぎるだけの場所でした。私が高校生の頃からその喫茶店の看板を知っていたのだけれど、お店の中に入ったことは一度もなかったのです。からんからんと軽やかなベルの音がする扉を開けて入ると、照明がやや薄暗い、レトロな内装の店内は穏やかさに満ちていました。長く経営されていらっしゃるのでしょう、年配のご夫妻らしきおふたりがカウンターの向こう側に見えます。コポコポとコーヒーメーカーが作動する音。フライパンで何かを炒める音。壁には、柱時計と大きな木の板。板にはメニューが白いペンキで書きつけられています。店内の1人がけのテーブル席が二つ埋まっていました。1人は、主婦風の女性。ちょっと朝ご飯を食べにきたよという風情です。もう1人はネクタイを少し緩めて新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる、初老の男性。きっとどちらも常連さんなのでしょう。懐かしい、というほど喫茶店の文化を知らないけれど、不思議に懐かしさを感じてしまいました。きっとここは、昔からずうっと変わらない、喧騒とか慌ただしさとかからは程遠い、ゆったりと時間が流れている空間なのでしょう。ちょっと別世界みたいです。初めて訪れた私でも、常連さんに混じって、静かで穏やかな朝の時間を楽しむことができました。喫茶店の文化、モーニングの習慣ってすごくいいなと、この頃では思っています。

梅春の季節

梅春商品、という言葉をご存知でしょうか。これはファッション業界で使われる専門用語で、12月末頃から2月頃の期間に店頭に並ぶファッション衣類のことです。私はこの「梅春」という言葉を、とても美しいと感じます。年末から2月は、一年で最も寒い時期です。にも関わらず、年が明けるや否や暦は新「春」を告げます。体が感じる季節と暦の季節にほんの少しズレを感じる時期は、ファッションにも工夫が必要なわけです。真冬の暗い色合いは重すぎるけれど、まだ薄手の生地を着るには寒すぎる。そこで、梅春物の登場です。寒い冬と暖かい春をつなぐ装いなのです。素材は冬仕様ですが、色は春を表現します。寒さに耐えうる暖かい素材で作られているけれど、春を感じさせる明るい色合いなのです。近年、インターネットでは一年中、春夏秋冬の衣類にお目に掛かれるし、簡単に購入が可能です。だから、随分機会は減ってしまったけれど(それに不平はないのだけれど)、実際にお店に出かけて行くことなしにファッションが創り出す季節感と空間を体感することは、本来はできないのではと私は思っています。デパートやショッピングモールにて。落ち着いた黒、こっくりとした茶色で満ちていた衣類のコーナーが、年明けと共に春の訪れを知らせる、明るい白や軽やかなパステルの色合いであふれかえる瞬間!!季節が巡っている!と実感して、心から嬉しくなります。希望を感じさせる春。空と海と雲が躍動する夏。黄金の実りをもたらす秋。雪景色が静かに映える冬。ファッションが表現してくれる季節がどれも大好きです。そして、四つの季節を繋ぐ梅春のような短い期間。季節の移り変わりをも繊細に表現するそれは、本当に素敵です。当県は雪になると、今朝のお天気ニュースで聞きました。なんせ、今は一年中で一番凍える季節ですものね。が、同時にこの寒い寒い冬の中に、かすかに浮き立つ春の気配を感じます。そう、ファッションを通して!今日はあったかいウール生地の、ふんわり明るい白のニットを着て、授業に出かけましょう。

去らせて、見出したもの

クリスマスや年末が近くなると『ホリディ』という映画が観たくなります(時季外れですみません)。キャメロン・ディアスとケイト・ウィンスレットのダブル主役。ジャンルで言うと「ロマンチック・コメディ」です。キャメロン演じるアマンダは、10代の頃の辛い経験がきっかけで、涙を流して泣くことができなくなった女性です。映画の予告制作会社を経営するほどの成功者ですが、「涙の一つも流さないなんて、君は心が凍ってる!」と、恋人に振られてしまいます。もう一人の主役、アイリスも元彼を断ち切れないでいました。この二人がホーム・エクスチェンジというネットのサイトで知り合い、クリスマス休暇の間家を交換して過ごす、というのが大筋のストーリーです。ラブコメらしい偶然やハプニングがあるのは当然ですが、今回、私が注目するのはキャメロン演じるアマンダの「泣けない」という悩みです。ごく最近のことですが、私はアマンダと似た悩みを持っていることに気づきました。元々自分はずっと昔から、自他ともに認める超超超涙もろい人間です。生徒のがんばっている姿、友人の言葉や思いやり、家族の気遣い。そういった人の心の温かさに触れる時はもちろん、空の青さと雲の白さ、木々の緑や、道端に咲く名もない花の透明な美しさを見るだけでも、勝手にうるうると瞳がぬれてしまいます。授業中に涙をこらえることは珍しくないため、長年通っている生徒たちは「まぁた、先生。今日も泣いちゃってるよ…」と見慣れたものです(書いていると少々情けないですが。泣くと言っても常識的な範囲ですのでご安心くださいよ)。いえ、そうだったはずでした。その自分が、この半年ほど、ほとんど涙を流せなくなっていたのでした。何かあると、胸にぐっとは来るのです。けれど、泣けない。涙がポロポロと出るまでに至らないのです。じわりと熱いものが瞳を覆う…かと思いきや、瞬間的に乾いてしまう。さらに言うと、自分がちゃんと泣けないと気づいたのは、実はほんの数週間前のことでした。で、自覚したときにはショックを受けました。原因に心当たりがないとはいえません。約一年半前、辛い経験をしました。心身共に最低まで落ち、再起不能だと思っていたあのころのことです。幸いにも周りの方たちの支えによって、そこから抜け出し回復することができました。しかし、その時から心のどこかで「もっと強くならなくてはならない。」と思い始めたように思います。こんな失態を二度とおかさないために、心を強靭にしなくてはならないのだと。具体的にはそれ以来、身の回りに起こる出来事に対して即座に動揺することを避けるようになりました。なにが起きても「大したことじゃない」と先に理性と知性で対応し、感情や心が動かないように「訓練」する癖をつけました。やがてそれが「習慣」となってしまったのでしょう。確かに、あまり心を動かさないようになると、日々のタスクや仕事を「効率的に」こなせるようになりました。タイパとコスパがいい生き方を、涙と引き換えに手に入れたのかもしれません。アマンダは、多くの従業員を抱える大企業のトップであり、誰もがうらやむ豪邸に住んでおり、何不自由ない人生を歩んでいるように見えます。しかし、ラスト近くで、心を揺さぶられた彼女が涙を流すシーンがあります。それはとても自発的に、自然に、止めどなく。あふれて流れて止まらない涙を自分の頬に感じた時の彼女の表情!それは2時間のストーリーの中で最も美しく、優しく、そして幸福な笑顔でした。ここを見せたいがために作られた映画だと私は信じています。『ホリディ』を観たから、というわけではないのですが(でもひとつの小さなきっかけだったかもしれません)。新年に入ってから、私は頭で先に考えて心を後回しにする生き方を手放すことにしました。それが自分を強くしてくれる、逆境を生き抜く力になる、弱い自分を覆い守ってくれると信じていたやり方です。ですが、かえって自分を意固地にし、心を縛り、生活から自由を奪っていたことに気が付いたのでした。「手放したい。」と素直に思いました。「手放そう。」と。手を放すことで取り戻す自由があるということ。去らせることで新たに見いだす生き方があるということ。2024年になってからの発見であり、変化です。あれから、2週間ほどが経ちました。私は再び、自然に涙を流せるようになった自分に気づきつつあります。