「誰かを好きになったら、どうしますか。」

高校三年生、国語の時間のこと。

授業は「たけくらべ」。主人公と幼なじみの少年の淡い恋を描いた小説である。主人公の少女は好きになった少年につい不器用な言動を取ってしまう、というようなワンシーンを学んでいた時のことだ。国語の教師が突如「皆さんは、誰かを好きになったらどうしますか。」と生徒たちに問いかけた。教師はさらに「皆さんなら、好きな人にどのように接しますか。」と続け、一人の男子生徒を指名した。彼は「好きになったら・・・その子にいいところを見せようとがんばります。」と答えた。好きな女の子に特別親切に振る舞うということだろうか。あるいはスポーツでも学業でも音楽でも(彼はバンドマンだった)、格好いいところをアピールするということかもしれない。へえ、積極的だなと私は思った。


続けて女子生徒が同じ質問を問われた。彼女の答えは「好きな人に、好きになってもらいます。」おおと教室はどよめいた。「どうやって?」と尋ねる教師に「会いに行ったり、話しかけたりして、私のことを知って、好きになってもらいます。」と彼女は答えた。


ちょっと待て、と思った。


好きな人に好きになってもらう。そのために会いに行ったり話しかけたりして自分のことを知らせるという行為に理解は出来る。が、そこから「好きになってもらう」の間には深遠なる溝が横たわっていると感じるのは私だけなのだろうか。というか、そこをどうするのかが知りたいのに、彼女の答えはいともたやすく瞬間移動しているのだ。しかし、その後の教師による挙手によるアンケートでは、クラスメートのほぼ8割が「好きな人には積極的にアプローチする派」、「時と場合による派」が1.5割、「好きになっても何もできない派」にこわごわ手を挙げたのは私とあと一人であった。周りの積極性に驚いたものだ。


私は恋愛が得意ではなかった。いいなぁと思う人には大抵好きな人や付き合っている人がいたし(略奪などは心に浮かぶことすらなかった)、彼女がいない人だとしても、不器用だったので思いの伝え方を知らなかった。ひと昔前の少女マンガにありがちな「好きな人の前に出ると顔が赤くなってしまい、話すこともできない主人公」そのままの高校生だったと言える。だからこそ同級生たちの「好きな人に好きになってもらう」という積極性に驚いたし、凄いなと思ったし、でも自分には出来ないなと落ち込んだりもした。自分は恋愛部門においては長らく、片想いの専門家だったわけだ。


大人になった今、「好きな人に好きになってもらう」という意味は何となく理解できるようになった。これはおそらく自分に自信があるから言えるのだと思う。いずれにせよ、「ほら、見て。私ってこんなに素敵なのよ。」と行動を起こして、相手が自分に好意を持ってくれるなら、とても素敵なことだと思う。


ただし、片想いのエキスパートからも一言言わせてほしい。片想いって、結構いいものだ。好きな人がいる嬉しさと、その人に出会うワクワク、たまに言葉を交わすときのドキドキ、はあまりにも楽しい。叶わない思いは切ないけれど、代わりに相手の幸せを願う気持ちとか、忍耐とか、究極的には思いやりを育ててくれもする。大胆な物言いをするなら、片想いは子育てに似ているかもしれない。愛情を注いで育てても、疎ましがられたり反抗されたり。時に伝わらない切なさ。親の心、子知らずってやつ。でも、それだけ相手を大切に思うなら、自分も(あるいは相手も)成長しないはずがない、みたいな感じだろうか。


あの時の質問を今問われたら、私はこう答える。

「誰かを好きになったら、その人を心から大切にできるよう、努めます。」


Be ambitious, boys and girls!