一期一会~タイ編③~

一期一会~タイ編①②~の続きです。


振り返ると、ひとりのタイ人男性が「Hello, hello.」と私に呼びかけていた。

年の頃は40代くらいか、短い髪にやや小柄だけどがっちりした体格をしている。私の警戒モードはビビッとマックスを指した。人気のない通りであえて話しかけて来る。私はかつて上海でぼったくり詐欺に遭遇しかけたことを思い出した。この人はポロシャツにハーフパンツ姿の、いかにもその辺の住民が散歩をしているような気楽な風体だ。だけど、バンクーバーで似たような格好をした普通の人が前を歩いていると思ったら、いきなりその男が路上に捨てられていたゴミを漁って食べ出した恐怖も覚えている私は、いつでも逃げられるようにやや距離を空けた。肩から提げたバッグを抱え込み、硬い表情で「何でしょう?」と返事をした。


その人は「どこへいくんだね。」と尋ねた。私は「ちょっとその辺りです。」と答えた。相手は「どこに行くの?」と畳みかける。思わず「あなたに関係ありませんが。」と答えると、「ご飯に行くんだろ?」とタイ人。ますます怪しい、なんなのだ一体。私はほとんど睨み付けるようにして、「タクシーを拾ってホテルに帰るんです。構わないで下さい。」と言った。しかし、彼はめざとく私の手に丸められていたガイドブックを見つけて「どこに行こうと思ってたの?」と問い、こう付け加えた。「実は私は高校の英語の教師をしているんだ。あなたが迷っているなら助けたいと思ってね。」私の警戒は真夏の雪のごとく一気に溶けた。


そのタイ人教師は私のガイドブックの店「R」をひとめ見て、あぁダメダメ、ここはもうとっくに閉店しちゃってるよと言った。ほらごらんと彼が指さす先に白い建物があった。あそこがその店だったけど、今は空き家になってるよ。閉店。どうりで見つからないはずだ。がっかりした私の表情を見てその彼は「あんまり美味しくないから僕は好きじゃなかったよ。行かなくて正解だよ。」といった。私はちょっと笑った。ガイドブックは当てにならない(部分もある)と思った。


タイ人教師は続けて「あなたは絶対にロブスターを食べたかったの?僕がいつも行くトムヤムクンの店があるけど、そこで食事をしてはいかがかな?」と聞いた。トムヤムクン!正にそれこそが私が求めていた旅行最後の目的だ。願ってもない提案に心躍ったけれど、またしても疑いがちらりと芽を出す。「そこは遠いの?方向音痴なので歩いて行くのは不安だし、タクシーで行くのもあまり遠いと帰りが困るから…」私が言い終わる前に、その人は通りに向かって大きく手を振り何かを叫んだ。やがて通りを走るトゥクトゥクのうち1台がぴたりと私たちの前に停まった。中から顔を出したのは少し年配の運転手、にっこりと笑う。運転手とタイ人教師は二言三言、タイ語で話していたが、ややあって、教師が私を振り返った。「この人が連れて行くから大丈夫。そんなに遠くない、5分くらいだから。トゥクトゥクの料金も○バーツで交渉したから、心配しないで。」○バーツはトゥクトゥクにして破格の料金だった。そうして私をトゥクトゥクに乗り込むように言った。「自慢のトムヤムクンだから、ぜひゆっくり楽しんで召し上がんなさい。」といって笑顔で手を振った。私は一連の出来事に、しっかりお礼を言うのも忘れるほどポカンとしていたように思う。実際、5分ほどでついたそのお店は森の中に有り、半分がガーデン席で自然を臨むお洒落な作りのレストランだった。周りのお客はローカルなタイ人の家族ばかり。ガイドブックには掲載されることはないだろうその店のトムヤムクンはありえないほどリーズナブル。そして、あの人が勧めた通り本当に本当に美味しかった。間違いなく我が人生でナンバーワンのトムヤムクンだと今なお思う。


ちなみに、私がゆっくり食事を頂いたあとで店を後にしたら、さっきのトゥクトゥクが待っていてくれた。「お食事後はホテルまで送るように言われたので。」とたどたどしい英語で運転手が知らせてくれたのを聞いて、再び感謝で胸が一杯になった。


海外を旅するとき、気をつけなければならないことは山ほどある。住み慣れた自分の国と異なり不便を強いられることは少なくない。だけど、掛け値なしに親切な人とまみえる奇跡もある。あのタイ人教師の方は、どうしてあんなに親切にしてくれたのだろうかと今でも思う。きっと私が旅行者だからではなく、困った人や助けを必要とする人にはいつも手をさしのべるひとなのであろう。それにしても、もう少ししっかりお礼を伝えたかった。


あの時の高校の先生、本当にありがとうございました。先生のお陰で私は今もタイが大好きです。


一期一会~タイ編~完