異国で日本語を教えた時のこと⑤

↑続きです。

日本語講座には最終的には6〜7名が集うようになっていた。そして3ヶ月後、最初の取り決め通り、無事終焉を迎えた。

最後のレッスンが終わってから。充実感と共に図書館を後にし学生寮に帰ろうとした時、ケイレブが「Y、送っていくよ」と来てくれた。並んで歩きながら改めて「楽しい時間をありがとう。日本で夢を叶えてね。」と伝えた。日本で教師になりたいという素敵な夢。ほんの少しでも力を貸せたなら本望だ。

ケイレブは「Yには夢ってあるの?」と唐突に質問をしてきた。私の夢?なんだろう。実は私は日本で高校生だった頃は、国語科の高校教師になりたかったのだ。なぜなら、高校2年の時すごく尊敬する国語の先生に会ったから。その方のように10代の生徒の心に希望や情熱を灯す教師になりたかった。

「でも」と私は笑った。「アメリカに来ちゃったよ!国語の教師とは全く関係ない場所。第一志望の大学に落ちたのがきっかけだけど、落ちなければアメリカに来ようとは思わなかった。この州を見つけたことも。N大に入学したことも。英語漬けの毎日を送ることも。まさか日本語を教えるチャンスをもらうなんてことも。想像もしてなかったよ。全部が奇跡だって思ってる。」と、英語でゆっくり言葉を組み立てながら話した。

「まだ将来の夢はわからない。けれど、自分がここにいることにはすごーく大きな意味があると信じてる。そうだ!ひとつだけ願っていることがあるよ。私は将来、世界を良くするために役に立ちたい。どうするのかは、絶対に!これから見つける!すごーく楽しみ!」と、結んだ。


流ちょうではなかったけれど、この時口にした思いは、自分の中に留まった。というか、言葉にしたことで心の奥に潜んでいた思いが形になったように感じた。このとき私は初めて、自分が海外に来た理由を確信したのだった。

あれ、と気づく。いつも頷いてくれるケイレブの反応がない。横を振り返り、その表情を見て驚いた。彼は私を見ていたのだけど、私の中を見ているような不思議な表情だったのだ。ぼうっとしているような、すごく真剣なような、驚いたような、そんな顔。 

「どうしたの?」呼びかけに彼はハッとした。あ、そうなんだ。それってすごくいいね。とかなんとか。珍しく口ごもりながら、ケイレブは別れを告げた。ちょうど私の寮の前に着いたので。


その週末の前日、部屋の電話が鳴った。相手はケイレブ。「Y、明日は何してるの?」と。マメな彼は、国際交流パーティーがあるよ、とか学生会主催のギャザリングの案内もらった?とか、留学生に知らせてくれることが度々あった。だから私もいつもと同じく「アートのクラスの課題が溜まっているから仕上げる。」と言った。そうだった。私は普段は宿題と課題に追われる留学生だったのだ。


一応礼儀として「明日何かあるの?」と聞く。ややあって電話の向こうから「その、一緒に映画でもどうかなと思って。」と返事があった。どことなく声が違ったような気もしたけど「そっかーごめん!私は無理!誰か行けそうな人探してみようか?」と提案する私。「いや、いいんだ。」慌てて断る彼。「OK、またねー。」と電話を終えた。


後日この電話のことをミキさんに話した。そうしたら「Yの鈍感さは殺人鬼級」とバッサリ斬られた。彼、勇気を出したんだろうに。あーあ、かわいそう!!ミキさんの呆れ半分のコメントを聞いた私にやっと、悪いことをしちゃったのかも、、という思いが湧いてきたものだった。(でも、仕方ないやん。わからないものはわからないのだから‥)


ようやくチャンスの前髪をつかみ損ねた話し」に繋げることができた。


そんなことで、アメリカで恋をすることは全然叶わなかった。けれど、あの場所で私が得たことはとっても多かったと思う。


そこで知ったこと、学んだこと、会った人たち、行った場所‥たくさんの経験が、私を育ててくれた。帰国後は、それまで考えたこともなかった英語の指導者としての人生を歩むことになった。とっても不思議だと思う。そしてとっても素敵だと思う。人生のどのピースが欠けても、ここには至らなかったと、今心から実感しているので。


あの日の帰り道、ケイレブに「いつか必ず」と語った夢をちゃんと見つけられたのだと、信じています。(完)

Be ambitious, dear friends.

現役英語講師の頭の中。