去らせて、見出したもの

クリスマスや年末が近くなると『ホリディ』という映画が観たくなります(時季外れですみません)。キャメロン・ディアスとケイト・ウィンスレットのダブル主役。ジャンルで言うと「ロマンチック・コメディ」です。


キャメロン演じるアマンダは、10代の頃の辛い経験がきっかけで、涙を流して泣くことができなくなった女性です。映画の予告制作会社を経営するほどの成功者ですが、「涙の一つも流さないなんて、君は心が凍ってる!」と、恋人に振られてしまいます。


もう一人の主役、アイリスも元彼を断ち切れないでいました。この二人がホーム・エクスチェンジというネットのサイトで知り合い、クリスマス休暇の間家を交換して過ごす、というのが大筋のストーリーです。ラブコメらしい偶然やハプニングがあるのは当然ですが、今回、私が注目するのはキャメロン演じるアマンダの「泣けない」という悩みです。


ごく最近のことですが、私はアマンダと似た悩みを持っていることに気づきました。


元々自分はずっと昔から、自他ともに認める超超超涙もろい人間です。生徒のがんばっている姿、友人の言葉や思いやり、家族の気遣い。そういった人の心の温かさに触れる時はもちろん、空の青さと雲の白さ、木々の緑や、道端に咲く名もない花の透明な美しさを見るだけでも、勝手にうるうると瞳がぬれてしまいます。授業中に涙をこらえることは珍しくないため、長年通っている生徒たちは「まぁた、先生。今日も泣いちゃってるよ…」と見慣れたものです(書いていると少々情けないですが。泣くと言っても常識的な範囲ですのでご安心くださいよ)。いえ、そうだったはずでした。


その自分が、この半年ほど、ほとんど涙を流せなくなっていたのでした。何かあると、胸にぐっとは来るのです。けれど、泣けない。涙がポロポロと出るまでに至らないのです。じわりと熱いものが瞳を覆う…かと思いきや、瞬間的に乾いてしまう。さらに言うと、自分がちゃんと泣けないと気づいたのは、実はほんの数週間前のことでした。で、自覚したときにはショックを受けました。


原因に心当たりがないとはいえません。約一年半前、辛い経験をしました。心身共に最低まで落ち、再起不能だと思っていたあのころのことです。幸いにも周りの方たちの支えによって、そこから抜け出し回復することができました。しかし、その時から心のどこかで「もっと強くならなくてはならない。」と思い始めたように思います。こんな失態を二度とおかさないために、心を強靭にしなくてはならないのだと。


具体的にはそれ以来、身の回りに起こる出来事に対して即座に動揺することを避けるようになりました。なにが起きても「大したことじゃない」と先に理性と知性で対応し、感情や心が動かないように「訓練」する癖をつけました。やがてそれが「習慣」となってしまったのでしょう。確かに、あまり心を動かさないようになると、日々のタスクや仕事を「効率的に」こなせるようになりました。タイパとコスパがいい生き方を、涙と引き換えに手に入れたのかもしれません。


アマンダは、多くの従業員を抱える大企業のトップであり、誰もがうらやむ豪邸に住んでおり、何不自由ない人生を歩んでいるように見えます。しかし、ラスト近くで、心を揺さぶられた彼女が涙を流すシーンがあります。それはとても自発的に、自然に、止めどなく。あふれて流れて止まらない涙を自分の頬に感じた時の彼女の表情!それは2時間のストーリーの中で最も美しく、優しく、そして幸福な笑顔でした。ここを見せたいがために作られた映画だと私は信じています。


『ホリディ』を観たから、というわけではないのですが(でもひとつの小さなきっかけだったかもしれません)。新年に入ってから、私は頭で先に考えて心を後回しにする生き方を手放すことにしました。それが自分を強くしてくれる、逆境を生き抜く力になる、弱い自分を覆い守ってくれると信じていたやり方です。ですが、かえって自分を意固地にし、心を縛り、生活から自由を奪っていたことに気が付いたのでした。「手放したい。」と素直に思いました。「手放そう。」と。


手を放すことで取り戻す自由があるということ。去らせることで新たに見いだす生き方があるということ。2024年になってからの発見であり、変化です。



あれから、2週間ほどが経ちました。

私は再び、自然に涙を流せるようになった自分に気づきつつあります。



Be ambitious, dear friends.

現役英語講師の頭の中。